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南京事件について [睡夢庵 日々徒然]

【南京事件について】

この検証に入る前に以下の要領で英語版 Wikipedoa を検索して頂くとそれだけで「南京大虐殺」が虚構である事に気付かれると思います。
英語で“大虐殺”は“massacres”です。 これと Korea、Chaina、Japan を組み合わせて検索してみて下さい。

韓国(Korea): http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_massacres_in_South_Korea
中国(China): http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_massacres_in_China
日本(Japan): http://en.wikipedia.org/wiki/Nanking_Massacre

日本で引っ掛かってくるのは「南京大虐殺」と「秋葉原通り魔事件」位のもので、リストでは上がって来ません。 これが何を意味するか。 自国民に対する“大虐殺”も「中国人」、「朝鮮人」にはその“国民性上”ありふれたものですが、「日本人」にとっては起こしえないものだという事です。
しかし、韓国も中国も派手にやっていますね。 これが「南京事件」がでっち上げられた原因だという事なのです。 彼らにとって、敵対者は“人”ではないのです。 如何なる方法で辱めようが殺そうがその良心に触れる事はなく、寧ろ喜びなのでしょう。 同時期に国民党軍は上海や南京市内で親日派と目された人々に対し“大虐殺”を行っています。 ですから、日本軍も「同じ事をやるに違いない」という発想です。

日本人にとっては、如何に“敵”であろうと“人”は人です。 戦いが終われば、既に倒すべき“敵”ではなくなりますし、“死者”は汚すことの出来ぬ神聖な存在になります。

《南京の人口について》

・ 南京市人口     約100万
  南京攻略戦開始前  約20万人迄減少
            攻城戦中安全区 約20万(市面積の1/8)
・ 南京入城1ヶ月後  約25万人

《南京攻略戦における損害等》1937/11/07~12/24
 この出典は日本軍内部資料ではないので信憑性は?

・ 日本軍    戦死(上海~南京) 6000人
         内攻略戦での     800人
         戦傷        4000人
・ 国民党軍   敵方遺棄死体   84000人
         内戦死       8000人
         捕虜       10500人
         鹵獲小銃    120900丁

中国側資料(上海・南京戦(第3戦区)1937/07/07-12/31)
[何応欽上将の軍事報告] 国民党軍内部資料
             1948/12 台北市文星書店初版

         戦死 将校     1638人
            士官・兵士 31362人
         負傷 将校     3288人
            士官・兵士 62052人
この資料上には南京で虐殺があったか否かについて一切
触れられていない様です。

《南京攻略戦に動員された日本軍》

・ 上海派遣軍  第3師団先遣隊(名古屋)
         第9師団(金沢)
         第16師団(京都)
         第13師団歩兵第9旅団(高田)
・ 第10軍   第6師団(熊本)
         第114師団(宇都宮)
         第5師団歩兵第9旅団(広島)

    総兵力約12万

《南京攻略戦に動員された中国軍》

・ 南京防衛軍
・ 第23集団軍
・ ソ連空軍志願隊

    総兵力約9万

《戦闘経過》

11月7日~12月4日迄上海-南京間掃討戦
12月4日  日本軍南京郊外に到達
12月7日  日本軍 外郭防衛陣突破
       13:00 南京市への攻撃を開始
       防衛指令長官唐生智を残して総統蒋介石ら
       中国軍首脳陣が南京脱出
12月9日  12:00 降伏勧告のビラを空中撒布
12月10日 13:00 応答なく総攻撃開始
12月12日 20:00 司令官長官唐生智 脱出
       国民党軍長江への退路に当る邑江門に
       督戦隊を配置市内の兵の退路を経つ
12月13日 南京城陥落 日本軍南京入城
12月14~16日 敗残兵掃討開始
12月17日 日本陸海軍による入城式
12月18日 陸海軍合同慰霊祭挙行
12月21日 各兵団城外退去
12月22日 以降第16師団歩兵第30旅団が警備を担当
12月23日 南京自治委員会設立
12月24日 第16師団憲兵隊と南京安全区国際委員会が
       南京難民区の兵民分離査問作業を開始
       翌年1月5日に終了

《日本軍、国民党軍、八路軍(赤軍)の軍紀について》

この作戦に投入された[日本軍]の各師団は内地編成の正規師団ですので、軍律は厳しく一般的に考えて略奪や強姦等を行うとは思えません。
この点については、南京攻略戦まで日本軍の軍紀は保たれており、そのことは日中双方に従軍した外国人記者も証言しています。 南京攻略戦時のみに虐殺を行ったというのはまず不自然です。 捕虜の処刑以外は何れも伝聞であり、現場には遭遇していないと証言しています。

また、当時の記事の殆どは遺棄された死体や伝聞によるものだった事が現在では明らかとなっていますし、極東国際軍事裁判に証拠として提出された写真には直接「虐殺」を示すとされる写真程、偽造された写真や時期、現場が異なるものなどが多く含まれています。 例えばその時期には使われていなかった以後の軍服を着ている、日本刀の扱い方が違う、絶対に日本軍が採らない処刑法など・・・なぜなら、日本人は死者に対しては恩讐を超えてその尊厳を認めるからです。 これは国内で墜落死した米軍パイロット達への遇し方にも現れています。 特に江戸期以降、死を神聖視する日本人には死体を辱め、毀損する様な発想はないからです。 これらの発想は中国や朝鮮では違和感は持たれないでしょう、現代でもこれを実際にやっていますから。

[日本軍]は徴発等でも物資は購入し、厳格な治安体制を敷く上に飢えた民衆には食料や医療を提供した為、民衆には却って好意を持って迎え入れていた様です。 これはこの後の各国の報道や事件の後に南京を訪れた日本人に対する南京市民の接し方にも表れています。

[国民党軍]は地方に割拠していた軍閥、土匪の寄り合い所帯に近く、[八路軍(赤軍)]も徴発要員を多く抱えていた事や常に物資不足に悩まされていた事から、軍律は非常に劣っていたようです。 この為、民衆には歓迎されておらず、土匪と変わらぬと評価されていました。
その理由は、駐屯地では略奪・暴行・強姦等は日常茶飯事だった事と食料などを強奪する、撤退する際には日本軍に物資を渡さぬ為と称して、一切合財を略奪・破壊・放火した為の様です。

[八路軍]の一部は便衣隊と称し民衆と同じ服装でゲリラ戦を戦っており、国民党軍内にも多くの細胞を抱えていました。 これが南京にも多数いた可能性を否定できないのです。

《国民党軍(蒋介石軍)の取った戦略》

これを戦略と言って良いのかわかりませんが、上海戦から南京陥落迄に採った策は焦土作戦でした。 その被害地域は上海から南京迄約300kmで国民党軍が第3戦区と呼ぶ地域に当り、主な所でも8ヶ所の鎮や県がその被害に会っています。 これは1940年維新政府概史編纂委員会 編の「中華民国維新政府概史」に出てきますし、多くの外国人の証言にもその姿が窺えます。
日本軍相手にせよ共産党軍相手にせよ、国民党軍の基本的な戦略がこれであった事は多くの書籍等で窺えます。

蒋介石はこれを日本軍の行為に転嫁させますが、残念ながら日本軍は近代的な兵制の元で構成された国際法を遵守する軍隊であり、これから自身の統治区域となる場所にこの様な前近代的な戦略で望むはずもないのです。 それはこんな事をすれば、民衆が喜んでその統治を受入れるはずがないからです。 宣撫策としては下の下ですからね。

この様な発想は「力こそ正義」といった前近代的な発想を持つ指導者の下でしか起き得ない事だからです。 そして彼らにとって民衆は単なる収奪の対象であり、物に過ぎなかったといっても過言ではありません。

この発想は後に1938年6月に蒋介石の“黄河決壊”作戦となって現れています。 これも当初は日本軍が行ったと宣伝しますが、後に蒋介石がこの作戦を自画自賛しています。
これでも明らかな様に彼らにとって民衆などどうでもよかったのです。 武漢に迫る日本軍を食い止める為に行った行為ですが、一時的な遅滞は起きますが、日本軍に与えた損害は僅かに3名?の死者だけだったようです。 しかし、その冠水地域は660平方キロに及び、死者約32万人、離郷者約117万、その後に起きた旱魃や疫病の影響による死者迄含めると民衆の受けた苦しみはいかばかりか。 これが当時の中国の為政者の姿なのです。 日本人にはとうてい理解出来ない発想ではないでしょうか?

《日本軍の南京入城時の状況》

南京市民の多くは戦禍を避ける為、漢口方面へ疎開しており、その数は約80万人と言われています。 残りの20万人が「安全区」に避難し、その他の南京市内は無住の空間と化していました。
国民党軍は日本軍が入城する前に逃げ出しており、逃げ遅れた兵士は市民に姿を変えて「安全区」に潜伏してしまった為、南京市内には国民党軍が全くいない状態になっていたのです。

先遣隊および各門から入城した兵士や従軍記者達(海外の記者を含め100名以上)が見たのは、深閑とした無住の市街であり、敵兵は無論住民の姿もないという従来にない異様な静寂に包まれた空間だったようです。 その為、先遣隊の兵士の間には怯えすら走ったとさえ伝えられています。

この様に、日本軍全部隊の入城が完了するまで銃声すら聞こえないといった状態だったのです。

《日本軍の市民に対する保護措置》

当時南京には欧米人を主体とする「南京国際安全区委員会」という自主的住民管理組織が出来ており、この申し入れに応える形で日本軍・国民党軍双方が承認した国際「安全区」が設定されていました。 日本軍がここには砲・爆撃を加えていない事や国民党軍に最終攻撃前に投降勧告を行っている事からも一般市民への被害を極力抑えようとする意図は明らかです。 そして、日本軍の司令官・松井石根大将は南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳命していました。

「南京国際安全区委員会」から日本軍へ提出された感謝状(1937/12/14)で少なくとも入城直後迄には市民に対する「虐殺」は発生していないことは確実ですし、日本軍が「安全区」に対する攻撃は一切していない事も証言されています。

また、3日で敗残兵掃討は完了し、1週間後には第十六師団第三十旅団を残して残りの軍団は新しい作戦の為転進しています。 その内第三十三聯隊第三大隊は南京を離れますので、残りの約4000人で南京市全域の警備を担当する様になっています。 これ以降はこれで南京城内全域と20万人の治安を維持出来ると判断したのですから、この時点で既に日本軍治安担当区域の治安は回復していたと見て良いでしょう。 そして12月31日には南京城内の電気・水道も復旧しています。

その上、当時「安全区」を運営していた「南京国際安全区委員会」との無用の摩擦を避ける為と日本軍兵士による不祥事発生防止の為に、全軍に「安全区」への立ち入りを禁止し、兵隊を配して監視していましたので、この間に「安全区」内で日本兵による不祥事発生の可能性は殆どなかったと言ってよいでしょう。

《敵方遺棄死体の数に関して》

戦闘面での国民党軍の死者は条約上戦死扱いになります。 敗残兵の掃討戦での敵方の死者も戦死者扱いにするでしょう。 また、市民を装っていた国民党軍兵士が捕縛された場合「不法戦闘行為」と看做され処刑されます。 これらは当時の国際法に則った処置なのです。

国民党軍の内部資料を見ますと、投入兵力は9万でほぼ同じですので、戦死者数3.3万は信じてよい様です。 只、こちらは盧溝橋以降南京陥落迄と言って良い数字ですので、とすれば Wikipedia 等の数字はよくある大本営発表でしょうかね~ 戦果がさば読まれているとなるともう追う意味もありません(^^;)

国民党軍の生還している員数を見ると約4~5万人分の遺棄死体は一体何?という事に確かになります。
掃討戦終了後放免された捕虜も万以上に上り、後に汪兆銘政府の軍に参加したものも約2000人いる様ですが、捕虜を相当数銃殺に処しているのも事実の様です。

南京は長江に面しており、国民党軍はこちらに向けて撤退しています。 長江を渡る為の船を民衆と争って、国民党軍兵士が民衆に向け機銃掃射を行ったという話もあります。 また、長江への逃げ道にある邑江門に督戦隊を置いていた事も明らかになっていますし、この内側に堆く兵士や市民の死骸が積み上げられていたという報告もあります。

国民党軍と共に脱出を図った一般人が戦闘の巻き添えを食ったり、督戦隊の餌食になったりというケースがその位あったのかも知れません。 南京には当時反日派もおり、この戦闘期間中に親日派を虐殺したようです。 だとすれば、この派に属す人達は国民党軍と共に脱出を図ったと考えるのが順当でしょう。

平野卿子訳のラーべの「南京の真実」で問題となる箇所は多分「遺体を埋葬した紅卍会によると、一日200体の埋葬は無理だったそうですが、私が南京を去った2月22日には未だ3万体の死体が埋葬出来ないまま・・・」とあるところでしょうね。
その後、紅卍会が作成した埋葬者リストを確認した結果によると埋葬した死体の総数は約4万人で女性、子供は0.3%と報告されています。 残りが男性という事になりますが、この中には国民党軍の戦死者、「安全区」に潜んでいた将校・兵士、火事場泥棒を働いていた集団、督戦隊に殺された国民党軍兵士(邑江門の城壁の内側に兵士の死体が1.5m以上堆く積み重なっている処をニューヨーク・タイムズ記者ティルマン・ダーディンが目撃:日本軍はこの方面では戦闘をしていない)、長江に逃れようとして死んだ兵士や市民等が含まれているでしょう。

日本軍のこの戦区での戦死者総数は2万人を超える様ですので、双方で約6万人の戦死者とそれに倍する戦傷者を出しているのですから、国民党軍と共に脱出した民衆がいれば、その相当数が巻き添えなった事でしょう。 殆どが追撃戦だった様ですから、逃げるとドンの可能性大ですから。

補追)督戦隊とは
中国国民党軍、八路軍(中国共産党赤軍)は通常の軍団の他に督戦隊という、自国の兵士に銃口を向ける兵隊を持っていました。 彼らの軍隊は寄せ集めなので、士気も低くちょっと敗色が濃くなると皆蜘蛛の子を散らす様に逃げてしまう為、退き口に督戦隊をおき退却する兵士を撃ち殺していたのです。

《果たして南京大虐殺はあったのか》

当時南京国際安全区委員長を務めていたドイツ人ジョン・ハインリヒ・デトレフ・ラーベ(シーメンス社の中国駐在員/ナチス南京支部副支部長)の日記や国際安全委員会が作成した報告書を基にした報道が米国、中国を中心に行われた結果、世に言う「南京大虐殺」があったことになってしまいます。 しかし、ラーべ自身はナチス党員でしたが同時に国民党の顧問でもあり、日本との三国同盟に反対だった事もあってか、国民党軍の「安全区」内での反日攪乱工作に手を貸し(攪乱工作をした国民党軍将校・兵士を複数組匿っていた)、報告が上がる犯罪行為を検証もせずに日本兵の仕業として報告書を作成していますので、彼らが主導していた期間に作成された報告書は元より彼の日記も作為的な捏造と断じてよいものです。

この事実は既に 1938/01/25 付けの「チャイナ・プレス」にも報じられていますが、これらは米中主導で進んだ極東国際軍事裁判では無視されてしまいます。
彼の行為の疑わしさについては、1938年1月9日南京に戻ったドイツ大使館のシャルフェンベルグ事務長が 1938/02/10 付けで漢口ドイツ大使館に「ラーベは最近、日本兵による血なまぐさい事件をまたぶり返し、それを阻止すべく、あいかわらず奔走している。 だが私の意見では、ドイツ人はそんなことを気にとめるべきではない。 なぜなら南京の中国人らが日本人に頼り、仲良くなっていることは、見れば明らかなことだ。 第一、暴行事件といっても、すべて中国人から一方的に話を開いているだけではないか」と書き送っています。 帰国したラーべは多分これが原因でしょう、ヒトラーにより投獄されてしまいます。

南京入城時の市内は《日本軍の南京入城時の状況》に記した通りですから、この時点で捏造された報告書や「南京大虐殺」絡みの著作にある様な虐殺行為が起きる訳がありません。
また、それはラーべ自身が日本軍に提出した感謝状(1937/12/14)でも裏打ちされるでしょう。

南京市の南京攻略戦開始前後の人口ですが、1937年11月28日に警察庁長官・王固磐が記者会見で「今尚20万人が住んでいる」と述べています。 そして、12月18日には南京国際安全区委員会が人口「20万人」、1938年1月14日には「25万人」と発表しています。 もう、これだけで世に言う市民を巻き込んだ「南京大虐殺」は虚構であり捏造だという事がはっきりしますね。

ラーべ等の報告や記事では「安全区」で多くの日本軍兵士による殺人や強姦、略奪があったと報告していますが、現実にはこれは有り得ない様です。 なぜなら、日本軍の司令官・松井石根大将は、南京攻略を前に、「決して民間人を殺してはならない」と全軍に厳しく命じていました。 また、入城後は不祥事の発生を避ける為、安全区への立ち入りを禁止し兵隊を配して監視していましたので、これを犯して潜り込もうとする兵はまずいなかったでしょう。

兵民分離査問作業を担当した第7連隊の兵士にも「市民を殺して皇軍の名を汚すな」との通達が出ており、「民間人に危害を及ぼさないよう非常な注意を払った」と語られています。

日本軍は1938年1月以降住民にこの「安全区」を出て元の住まいに戻るよう指示しますが、「安全区委員会」構成員は自身の権限と特権が失われるのを恐れ強く抵抗します。 しかし、市内の治安回復を見た住民が自主的に「安全区」を離れた為、1938年2月「安全区委員会」は解散します。 これ以降は日本軍の警備本部が通報受付をしますが、パタリと強姦事件等は発生しなくなっています。 また、それまで泥や油で顔を汚し汚い服を纏っていた女達が汚れを落し服を着替えて街に出てくるようになったとも報告・報道されます。

「安全区委員会」から報告された、殺人、暴行、略奪、強姦等を日本軍が精査した結果、「安全委員会」が作成した日本軍兵士に関わる被害届は報告者の記載もない聞いた事を只記録しただけの物が殆どである事が判明します。 日本兵が関わっていたものは僅か数件だった様です。

金陵大学教授ルイス・C・スマイスによる戦争被害調査(『南京地区における戦争被害:1937/12-1938/03)によると、南京市街地における民間人の死者は2400、拉致4200、南京周辺部死者9160、合計15,760人となっています。 しかし、ニューヨーク・タイムズの記者ティルマン・ダーディンの証言や国民党軍が取った焦土作戦の遣り方等からこの数字の殆どは国民党軍によるものと考えるのが妥当です。 国民党軍は健康な男子をクーリーとして使う為、至る所で拉致しています。 また、その殆どが生死不明となっていますので、スマイス教授は上海、南京間で国民党軍に拉致されたもの全てを死者としてカウントしています。

その他ドイツ大使館やイギリス大使館等から夫々の母国に報告が上がりますが、これも50人から6万人とまちまちで報告は全て伝聞を基にしたものであることも明らかになっています。

『シカゴ・デイリーニューズ』、『ニューヨーク・タイムズ』は「南京の暴虐」として報道していますが、これもラーベの通信を基にしています。 当時国民党軍に従軍していたニューヨーク・タイムズの記者ティルマン・ダーディンによれば、上海から南京に至る過程では「日本軍が捕虜を理由なく殺す処は見ていない」と証言していますが、一方で「南京では50人単位で銃殺に処せられるのを見た」と証言しています。 推定としながら、「2万の軍人捕虜と数千の市民が殺された可能性があるが、これは南京の「安全区」には20万人程の市民がおり、この中に数千の中国兵や便衣兵が紛れ込んでおり、民間人を装って略奪や放火、陵辱等を働いた為だろう」とも証言しています。 当時の国際条約では戦時捕虜の処刑に関しては「虐殺」としては扱われませんので、この意味では特に問題となる事ではありません。 その他、「日本軍は外部からいきなり「安全区」に攻撃を掛ける事はしなかった」とも証言していますので、掃討戦の捕虜・兵民分離査問過程で民間人に化けたと看做されたものが処刑されたと考えてよいと思います。

1938年1月4日付のニューヨーク・タイムズ紙には「金陵女子大学の避難民救助委員会の外国人委員として残留しているアメリカ人教授たちに国民党軍大佐一名とその部下の将校六名がそこでかくまわれており、ライフル6丁、ピストル5丁、機関銃1丁と弾薬を隠し持っていたところを日本軍の捜索隊に発見され、南京市内で掠奪したことや安全区内にいた少女たちに陵辱し、翌日犯人は日本兵だと言いふらしていた事を、アメリカ人など外国人のいる前で自白した」とあります。 しかも、この大佐は委員会のNo.2の地位についていたという事や、その他にも軍服を脱いだ将校や兵士が多数安全区に潜み反日攪乱工作を行っていたことが明らかになっています。

金陵大学病院医師マッカラム氏は、『(安全区に入ってきた日本軍は)礼儀正しく、しかも尊敬して私どもを処遇してくれました。若干のたいへん愉快な日本兵がいました。私は時々日本兵が若干の支那人を助けたり、また遊ぶために、支那人の赤子を抱き上げているのを目撃しました』と証言しており、1938年1月8日の日記に或る中国人避難民が「強姦や略奪、放火などは日本兵がやったのではなく、中国兵がやった。それを証明できる」というのを聞いたとも記述しています。

また、中国側が国際連盟において「南京における日本軍の暴虐」(当時2万人)という演説をしますが、非難決議はされていない点も当時の国際的判断は上と同じだったからだろうと思います。 これは中国と米国による宣伝行為と看做されたのだと思われます。

《南京大虐殺という捏造が行われた理由》

最大の理由はアメリカにあります。 当時のアメリカ大統領であったルーズベルト(任期:1933/03/04-1945/04/12)はレイシストかつ人種改良論者であり、特に天皇を頂き皇紀2000年を謳う日本人に強い敵愾心燃やしていた様です。 それは、駐米イギリス公使ロナルド・キャンベルに「欧州人、アジア人を交配させるべきだが、日本人は我々より約2000年発達が遅れているので欧米人との交配からは除外し、これは多民族と交配すべきだ」(日本人という民族を消滅させる)と述べた事で明らかになっています。
これでも判る通り、ルーズベルトは米国国民を日本との戦争に引き込む為であれば、反日ネガティブキャンペーンにはあらゆる機会を利用しようとしていました。

当時AP特派員として南京にいたハロルド・J・ティンパーリは、中国における日本軍の暴行に関する報告や記事などを『What War Means: The Japanese Terror in China(戦争とは何か-中国における日本の暴虐)』に纏めますが、ジョン・マギー(米国人牧師:南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員)の南京の状態を撮影したフィルムを見た時、これが米国政府がほしい中国支援(米国の参戦)の為の切り札になると考えます。 これは同じ安全区委員会のメンバーの金陵大学教授マイナー・シール・ベイツへの手紙(1938/02/04)に「この報告書とフィルムはワシントンに売り込めば金になるので資金の手配をしている」(意訳)といっていますので、アメリカの民衆操作の材料になるので、国務省が飛びつくと踏んでいた事が明らかです。 仲間であったジョージ・アシュモア・フィッチは国民党から渡米資金を得てアメリカに渡り、政府関係者とコンタクトした後、7ヶ月間に渡って全米各地で講演会を開いている処を見るとルーズベルトとハル国務長官がこれに乗ったのは明らかです。 それ故、これを元ネタにしたものは全て捏造といって差し支えないでしょう。

そのジョン・マギーは極東国際軍事裁判で南京事件の証人として証言台に立ち、多くの証言を行っていますが、1件以外は被害者からの事情聴取と現場確認のみで検証は行っていない事、実際に殺害現場を目撃した1件も日本兵に誰何され、逃亡した為に射殺されたものだと証言しています。
このフィルムは南京安全区内の鼓楼病院で撮影された16mmフィルムで、日本軍に暴行を受けた幼い子や女性、中国兵や民間人等の死体等とされる像が映っているということなのですが、プロの目から見ると、それらは日本兵の原因に帰すものとは言えず、死体が戦闘によるものなのか、虐殺されたものなのか、日本軍によるものか、敗残兵や便衣兵によるものなのか判断出来ない状態だという事らしいです。

加えて、中国国民党国際宣伝処処長の曽虚白も回想記「曾虚白自伝」に「抗日国際宣伝の材料として金を使って南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい印刷して発行することに決定し、これは宣伝の目的を達した」と記述していますので、国民党政府もこれが捏造と知った上で反日・抗日プロパガンダとして利用した事を証明するものになります。
また、アメリカのジャーナリストで、中国国民党宣伝部の顧問であったセオドア・ホワイトは、国民党の戦略は「アメリカの新聞雑誌にウソをつくこと、だますこと……アメリカを説得するためなら、どんなことでもしてよいというのが中国政府唯一の戦略になっていた」と述べています。

《戦後に日本で追加された捏造》

元朝日新聞記者 本田勝一氏(本名:崔泰英)
朝日新聞「中国の旅」(1971/08-12)

此処に語られる南京入城シーンは現場にいた外国人や日本軍先遣隊に所属した人々、日本軍従軍記者達が語った事とは全く違う極端な蛮行を行った様に捏造しています。 しかしながら、朝日新聞の記者であったが故に、多くの日本人にはそんな事もあったのかとして受入れられてしまいます。
当時各国の記者たちや従軍記者たちが取材した物とは全くことなり、記述された内容は「見下すものにはどんな残忍な行為も平気で行う両班気質の朝鮮人ならでは」の発想による物です。 掲載当時から捏造の指弾が朝日新聞社に多数寄せられますが、にも関わらず朝日新聞は新たに文庫本として 1981/12 に出版してしまいます。
今でも古書として出回っていますので問題ですね。 こんなものは食品等のリコールの様に“朝日新聞”が自身の責任で市場回収すべきものだと思います。 又、この国家の史実を捏造した人物の他の著作も全て回収されるべきものです。

平野卿子氏訳 ラーベ著「南京の真実」(1997/10 初版)講談社
      2000/09/13 加訳、修正、再編集して文庫本化

これについては、指摘された内容に関し修正・加筆等を加えて文庫本として再版されていますが、再版後の内容はちょっと確認していないのでなんともですが、まぁ、講談社を信用しましょう。
ただ、元が捏造物なので本来廃刊にすべきだと思います。

この他にも色々ですが、結構数が・・・

《中国政府関係資料にみる虐殺人数の変化》

・中華民国政府関連 1946-1968迄      大体10万人
          1978 「抗日禦侮」蒋経国 20万人

・中華人民共和国関連 1945 改造日報     43万人
           1946 南京地方院・・・・34万人
           1946-1947 人民日報   20万人
           1948 南京大虐殺    数十万人
           1948 証言・南京大虐殺 40万人

以上の様に何れも一貫性のない数字ですのでこれらには何の信憑性もない事は明らかです。 そしてこの数字の上積みは夫々が南京周辺で行った虐殺行為を糊塗する為だといっても良いでしょう。

中華人民共和国の軍隊(八路軍(赤軍))は日本軍との間で中国国内で行われた戦闘には殆ど直接的に関わっておらず、日本軍との戦闘の9割以上が国民党軍と言われています。 彼らが日本軍に対して行ったのは、便衣隊などを使ったゲリラ的行為のみであり、寧ろ自国民に対して行った虐殺行為の方が多いのです。 3回?だったかの日本軍との遭遇戦では局地的な勝利はありましたがその後徹底的に叩かれ、ゲリラ戦も困難になり逃げ回るほど弱体な軍隊だった様です。
それ故、彼らに「南京大虐殺」の実情を知るすべがなかった事は明らかなのです。

国民党軍にしても局地的な戦闘に勝つことはあっても、終戦迄日本軍に常に圧倒され、兵力を殺がれています。 これが最終的に国民党が共産党に破れ、台湾に逃れざるを得なくなる原因となっています。 それ故現地の状況を知るすべは彼らにもなかったはずです。

《わたしなりの結論》

国際法上で「虐殺」とされる行為は、今言われているレベル「大虐殺」では存在しなかった。

なぜなら、

・ 日本軍は司令官通達で「市民保護」を指示している事
・ 「安全区」を隔離・監視していた事
  (何れも皇軍の名誉に関わる事として神経を尖らせていた)
・ 戦闘開始1週間前に既に南京人口が20万人になっていた事から
  戦闘開始時には南京市周辺からの疎開は完了していたと看做せる事
・ 戦闘開始時と敗残兵掃討後の「安全区」人口が変わっていない事
・ 南京市自体の人口が1ヶ月後には25万に増加している事
・ 国民党軍と共に退却した市民も相当数居たにも関わらず、埋葬遺体に
  含まれる女性・子供の数が0.3%(120+人?)に過ぎなかった事
  又、国民党軍兵士による偽装殺人・強姦致死などが繰り返された割り
  には少ないという印象
・ 国際安全委員会に報告された事件の検証結果では日本兵が関与した
  ものは7件(兵士達には扱いに不満が残る厳しい物だった様だ)
・ 市内の治安レベルが短期間で通常生活が可能なレベルに回復している事
・ 電気・水道というインフラが2週間程度で復旧している事

尚、紅卍会が埋葬した死体のリストに載る総数は4万体強、市街地・周辺部での国民党軍による焦土作戦に伴う虐殺や拉致及び戦闘に巻き込まれた死者が2万弱、戦死者及び不法戦闘行為による処刑者が約2万強と言われていますので、大体これで埋葬数に近い値になってくる様です。 遺棄死体8万4千というのはちょっと眉唾みたいです。

これは点レベルでの「虐殺」に当る行為もなかったと言っているのではありません。
点レベルの「虐殺」は米・英・豪・ソ・中戦争当事国全ての軍隊が行っている事です。

世に言う「南京大虐殺」といったものは存在しなかったと言っているだけです。

ラーべの報告書や証拠として提出された写真にある強姦、処刑等の虐殺行為は中世的な思考から未だ脱していない中国人や朝鮮人にしか抱けない方法です。
なぜなら、韓国人は現代でもベトナムでこれを行い、中国共産党・漢族は簒奪地域で現在進行形で行っているからです。


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