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朝鮮通信使について [睡夢庵 日々徒然]

【朝鮮通信使について】

韓国では「朝鮮通信使」を韓国文化を日本に伝えたものとして誇っている様ですが、これは実態を現すものではありません。
尚、「朝鮮通信使」の名称は研究者によって生み出された学術造語であり、この時代の史料では「信使」・「朝鮮信使」と呼んでいます。
現在ではこれを狭義に捉え、江戸時代の使節を指す事が多い様です。

《室町期》

「朝鮮通信使」は室町将軍(足利義満)からの国書に対する返礼使節として1428年に始まったものです。 日本と信(よしみ)を通じる使者として派遣されたもので、15世紀半ば(7回?計画されたが正式に役を果たしたのは3回だけ)まで続きました。
日本側の目的は「交易」であり、朝鮮側の目的は悩まされた「倭寇の取り締まり要請」と「日本の国情調査」でした。

第1回は李氏朝鮮では『経国大典』、『訓民正音(ハングル)』の制定等でも名君の誉れ高い第4代“世宗”ドラマ【インス大妃】の時代です。
彼は日本の国情、稲作・製紙・建築技術を学んでこいという指示をだしています。 確かに彼は名君と呼ばれるに相応しい人物だった様で、冷静に時代を眺め、自国の国民性・文化・経済の状態の後進性に気付いていたのでしょう。 只、彼が制定した『経国大典』は民族の未来には多くの害毒を流した様ですが(^^) ま、その責はこの編纂に携わった者たちのレベルに問題があったのだから致し方ないのですが。

この成果が1428年の使節団の書記官だった申叔舟が著した『海東諸国紀』です。 日本・九州・壱岐・対馬・琉球国・朝鮮三浦等の地図が冒頭に添えられ、本文は「日本国紀」、「琉球国紀」、「朝聘応接紀」の3部に分れ、夫々の歴史、地理、支配者、言語等を記すだけでなく、幕府と大名の関係とその接遇法等も詳細に記述しており、これは日本史、琉球史及び日本語・琉球語史の重要な資料ともなっています。
彼の精神は感服するべきものですね。 ほんの一部の訳文を見た事があるだけですが、全てを一切私見を差し挟まず、客観的に透徹した目で眺めています。 この時代にはまだこれだけの力量を持つ人が宮廷で活躍出来る環境が残っていたのでしょう。

この報告では市場(貨幣)経済の発達、治水を初めとする農業技術等朝鮮にない遥かに進んだ面を正直に報告しています。
この結果を受けて、世宗は揚水水車の開発や貨幣経済への移行を試みますが、残念ながら何れも両班の抵抗や基礎的な技術力の無さから皆失敗に帰してしまいます。 1811年の通信使が水車の見学を希望した様ですので、400年を経て尚、揚水水車の開発に成功しなかったのではないかと思われます。

倭寇に関しては室町幕府の布告や討伐の成果もあり、激減した様で日本側が希望した交易再開の効果はあった様です。

《豊臣政権期》

次は1590年豊臣政権に派遣された通信使で、約150年間ブランクがあります。

この目的は名目は「秀吉の日本統一」を祝賀するものでしたが、実質は朝鮮侵攻の噂の真偽を確かめる為に派遣されたものでした。 前後2回派遣されますが、これに関しては大河ドラマなどを通し、その顛末は皆さんもご存知の通りです。

この時は対馬宗氏が仲介をおこなっています。
秀吉の目的は「李氏朝鮮の服属と明遠征の先導(征明嚮導)」でしたが、まぁ常識的に考えればこれは無理な話ですよね。 李氏朝鮮は日本を見下していたのですから(^^)
間に挟まれた宗氏は困り果てた事でしょう。 結果、秀吉の要求内容を改変して、新国王となった秀吉の日本統一を祝賀する通信使の派遣を李氏朝鮮側に要請しますが、これが結果的には「文禄の役」の引き金になってしまいます。

初回の正使は黄允吉、副使は金誠一ですが、韓流ドラマでもおなじみの様に宮廷内での対立関係が災いし、正使は「侵攻の意志あり」、宮廷主流派の副使が「侵攻の意志なし」と報告した為、侵攻直前迄なんの防衛策も採らなかったという何ともお粗末な・・・韓国歴史ドラマに見る両班・官僚の無能振りが既にこの時代でも顕在化している事が分ります。

第2回は明との休戦交渉の締め括りとして「明使(冊封使)」に随行したものですが、朝鮮側の正使・黄慎、副使・朴弘長共に接見を許されていません。 既に豊臣政権からは「朝鮮」は国家として遇されていなかった事を表します。 明側は秀吉を王程度には認めようかといった程度の認識ですから、話の合うはずもありません。
この結果も皆さんご存知の通りで「慶長の役」の引き金になってしまいます。

当事の李朝朝鮮の内情は民心は完全に王朝から離反しており、日本軍は最初の僅かな抵抗を除けば殆ど無抵抗で漢城迄至っています。 寧ろ民衆は日本軍を歓迎し、両班や国王・王族は北へ逃亡してしまっています。 これも日清戦争後の朝鮮民衆の対応と変わる所がありません。 日本軍の武将達はみな呆気にとられた様です。 あまりに抵抗がすくない事に。 逆にこれが禍し、急速に補給線が伸びた為に苦労しています。

朝鮮側の史料『宣祖実録』には“漢城の住民は朝鮮王を見限り、日本軍に協力する者が続出”と記しており、ルイス・フロイスも“(朝鮮人たちは)恐怖も不安も感じずに、自ら進んで親切に誠意をもって兵士らに食物を配布し、手真似でなにか必要なものはないかと訊ねる有様で、日本人の方が面食らっていた”と記録を残しています。
日本軍入城の前に景福宮・昌徳宮・昌慶宮等は灰燼に帰しており、身分台帳を保管していた掌隷院は奴婢の一団により放火されたと記されています。
民心が如何に王朝から離れていたかを示す実例でしょう。

『明史』では“豊臣秀吉による朝鮮出兵が開始されて以来7年、(明では)十万の将兵を喪失し、百万の兵糧を労費するも、中朝(明)と属国(朝鮮)に勝算は無く、ただ関白(豊臣秀吉)が死去するに至り乱禍は終息した。”としています。 明では寧夏のボハイの乱、播州(四川省)の楊応龍の乱と合わせて「万暦の三大征」と呼んでいますが、ここでの10万を超える兵の損失と700万両を超える戦費と万暦帝の奢侈が国力を落す元となり、明の急速な弱体化の原因となりました。

《江戸期》

徳川幕府は朝鮮及び朝鮮との交易を重要視していませんでしたので、これを自身の権威を国内に示す「朝貢使」として受け入れたに過ぎません。

それを端的に現すのが、庶民に対して「土下座」をして迎える事を要求していない事です。 国使でありながら、藩侯以下の扱いしかしていないのですから。
庶民も朝鮮が再度攻められる事を恐れ、朝貢しに来たものとして捉えていた事は、当時国内にいた外国人の日記などにも書かれています。
ただ、外交使節団ですし、幕府の威厳を民に示す目的ですので、通過する各藩には、それなりの礼を持って饗応させており、その費えは幕府直轄領の約1/4という結構なものだった様です。

江戸期の「朝鮮通信使」の始まりは、秀吉による文禄・慶長の役の後始末です。
第3回迄は「文禄・慶長の役」の後始末の為の物であり、「回答兼刷還使」と呼ばれます。

対馬藩主宗義智は藩財政の立て直しの為、朝鮮との交易を再開する必要に迫られ、朝鮮との国交回復を幕府に願い出、許可を受けますが、
朝鮮から要求された国交回復の条件は

① 徳川家康が国書を書き、秀吉の侵略を謝罪し、二度と侵略しないこと
② 秀吉の朝鮮出兵のとき、王陵(朝鮮にあった王様の墓)を、掘り起こしたものを、逮捕し、朝鮮に引き渡すこと

当然ながら、①は不可能なことでした。 朝鮮との交易をどうしても再開したかった宗義智が「国書」を偽造します。
ですから、韓国側からみればこれを見て下についたと錯覚している様ですが、朝鮮王の様に直接足下に土下座した訳ではありませんので、これは単なる外交上のブラフ(^^)の様な物。

韓国側の目的は「文禄・慶長の役」の捕虜・陶器職人等の工人の返還を求める事にありました。

「回答兼刷還使」 1607年の第1回~第3回迄
         国交回復と徳川政権への祝賀と捕虜返還

慶長・文禄の役においての捕虜等約7000人の内、王族・両班・儒生などは帰りましたが、工人層は各々藩主との契約で迎えられており、朝鮮での地位・収入に較べれば破格の待遇を与えられていた為、殆ど帰る者はいなかった様です。 これが国内の製陶技術と融合して北九州、山口等に有田焼や萩焼等、彼らを始祖とする多くの名陶の里を生む事になります。

「朝鮮通信使」  1636年の第4回~1811年の第12回迄
         襲封祝賀
第12回目は対馬に差し止めとした為、これ以降は廃止となる。

朝鮮側も再度の朝鮮出兵を恐れており、又、文化的にも遅れを取っている事には気付いていた為、江戸城は謁見を受ける形になる事を飲んでおり、実質的には朝貢使である事に甘んじています。

この間で韓国側で残された史料には第11回に随行した金仁謙の著書『日東壮遊歌』という見聞記があります。
そこには清国にも勝る日本の文化・経済の発展ぶりに度肝を抜かれ、自国の有様と比べ慨嘆する様子が記せられています。
只、江戸城では将軍との謁見について、その扱いに憮然たる思いを綴っているのも可笑しいですね。 まさか見下されるとは思っても見なかったでのでしょう。
また、又聞きの様ですが、家治の挙措について矢鱈キョロキョロし泰然とした風情がないと記しています。

当時は日本は鎖国状態ですので、随行した朝鮮の高級官僚は科挙を経た高い儒教の教養を持っていると思い、彼らから大陸の新しい文化を吸収しようとしています。 しかしながら李氏朝鮮の「儒教」は「朱子学」それも「性理学」であり、異説を認めない固陋なものであった為、初期以外は得るものなしとし、通信使自体の扱いも徐々に軽いものになっていきます。 双方の著作などを交換したのも初期の林羅山辺りだけだった様で、荻生徂徠の時代ではその説を批判し、旧来の朱子学説を固執するばかりになっており、役にも立たぬと評価しています。

そして、文化の違いや日本人に対する侮り、朝鮮両班の性情からの盗み、乱暴狼藉、陵辱等を働くものが多く、その道徳観の欠如にはほとほと手を焼いた様です。 中には都訓導・崔天崇の様に、通詞につばを吐きかけ杖で打ち据えた為、刺殺されるといった事件も起こしています。 江戸後期の儒学者菅茶山は「朝鮮より礼儀なるはなしと書中に見えたれど、今時の朝鮮人威儀なき事甚し。」と伝聞とは異なり無作法甚だしいことに驚いています。

これを見るとネット上の反日発言やベトナムに於ける蛮行等、朝鮮人の性情は現代に至って尚、一向に向上を見ていない事が良く分ります。 まぁ、日韓併合から僅か100年一寸ですから「1000年属国」の時代にDNAに刷り込まれた性情は、“五徳”を理解し・実践しようとする意志すらみせぬ韓国人では無理かも。

折角日本が筋道を付けた漢字+ハングル&仮名という自国文化の発揚手段としての教育方針を、自ら表音文字の「ハングル」だけにしてしまい、あれよあれよという間に理解力低下を来たし、過去の負の遺産の中に埋没しようとしています。 そして、「ハングル」だけでは李氏朝鮮にすら劣りかねない事にも気付いていないのです。
まぁ、これはアメリカの罠だったのかもしれません。 何しろ日本語をローマ字表記のみにし、日本文化を葬ってしまおうとした位ですから。 日本人の事を「イエローモンキー」と呼び蔑んでいたのが大半のアメリカ人だったでしょうから、まさか日本人の識字率、読解力が自国を遥かに凌駕しようとは思わなかった為かもしれませんが(^^)

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