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日本と朝鮮の人口推移と身分制度 [睡夢庵 日々徒然]

【日本と朝鮮の人口推移と身分制度】

次に人口の推移と身分制度から眺めてみる事にしましょう。

人口の増減でその民族が発展過程にあるのか縮退過程にあるのかが分ります。 現代の様に工業化が進み、一定以上の富の蓄積を完了すると一概に人口の減少がその国の国力や文化の減退を表すものではなくなりますが、一次産業しかない状態では人口の減少はそのまま民族の盛衰状況に直結します。
また、身分制度が存在する国家ではそのヒエラルキーが国力そのものを現すといっても過言ではありません。 生産活動に従事する者の比率が低ければ低い程、搾取が酷く国力がない事を示すのは語らずとも明らかな事です。 その様な国家では文化の発達は無論、新たな産業が起こることもないでしょう。 なぜなら富の蓄積が生まれないからです。 富が蓄積されて、人間は原始的な欲望から解放され、文化的な欲求を求める様になるからです。 欧州にせよ、中国、中東何れを取ってもこれは同じです。

日本の人口推移
1100     696万人
1200     750万人
1300     818万人
1400     890万人
1500     953万人
1550    1,029万人
1600    1,227万人
1700    2,828万人
1750    3,100万人  
1800    3,050万人
1870    3,279万人 庚午年戸籍
1872    3,311万人 壬申戸籍(明治5年1月29日)
1880    3,593万人
1890    4,045万人
1900    4,482万人
1910    5,098万人
1920    5,596万人 110%10年 125%/20年 171%/50年

<日本-明治3年(1870)統計集誌>

皇族      28人
華族     2251人/ 0.01% 公家華族・諸侯華族・勲功華族・皇親華族等
士族   1,094,890人/ 3.64% 武士階級
卒     830,707人/ 2.76% 下級武士/陪臣階級(中間・小者は平民に格下げ)
神職    146,950人/ 0.49%
僧侶    227,448人/ 0.76%   農・工・商階級 農  79.21%
平民  27,265,683人/90.62%           工   3.50%
穢多    443,093人/ 1.47%           商   6.60%
非人    77,358人/ 0.26%           雑業  9.12%
                         雇人  1.56%

江戸期の身分制での農工商というものは他の国の様な厳密な意味ではなく単に職能を区分して示したものに過ぎないと言っても過言ではありません。
この階級からの士分への取立ての例も数多くあります。 江戸時代、士農工商に数えられのは人別帳に記載されたもののみです。

また、江戸時代は幕藩体制を採っていたため、夫々の藩で身分制度には異なりがありましたが、中国・朝鮮の様な奴隷は存在しませんでした。
穢多/非人といっても中国や李氏朝鮮にみる奴婢の様に所有者に従属し、売買される物とは異なるものです。
日本では平安期以降律令制の衰退と共に、奴婢という存在は消失しています。

非人というのは平民の成り下がりであり、抱非人と野非人に分けられていました。 抱非人とは心中の生き残りなどであり、野非人とは人別帳を離れ路上生活者化したものを指します。 抱非人に関しては、一定の銭を納める事により平民に戻る事が出来た様です。

江戸期の穢多は非人の下に置かれ、平民の住居からは離れた一定の場所に集めて住まわされました。 彼らは「非人」の中でも素行が悪く非人の秩序を乱すものなどが対象となっていました。 穢多/非人は「非人組頭」の弾左衛門(世襲)の支配の下に置かれていました。

穢多の起源は日本仏教や神道の「穢れ」の概念から牛や馬等の生き物を殺し、革製品を加工したりするもの達を差別的に扱った事が始まりとされます。

穢多、非人は1871年10月12日の太政官布告(俗称:賤称廃止令)により公的にはなくなりましたが、江戸時代にはあった所有地の無税扱いや死牛馬取得権等彼らに与えられていた独占権を喪失した上、構想されていた生活支援事業が行われなかった事もあり、むしろ生活水準は下がってしまいました。 その上翌年の壬申戸籍では「新平民」と記載される等の差別は残り、結局の処、「四民平等」の理念による身分解放ではなく、「地租徴収」実施の為に等しくなってしまった様です。 この理念が実現されるには戦後の日本国憲法を待つ事になります。

<李氏朝鮮>

朝鮮半島の人口推移(李氏朝鮮-韓国統監府-朝鮮総督府)

1753  730万人
1850  750万人  李氏朝鮮における人口調査は徴税を目的とし申告制である為
1864  802万人  軍役とは無関係な女子の一部・賤民・奴婢等は除外・漏れが
1876  804万人  ある為、人口比率から考えるとこの1.3~1.4倍と考える
1885  897万人  のが妥当ではないでしょうか。
1891  788万人<-既に人口減少が始まり、民族としての衰退が始まっています
1904  710万人<-ここまで李氏朝鮮による数字(実質1,000万人?)
1907 1,167万人<-これより朝鮮統監府/朝鮮総督府による調査
1910 1,313万人  日韓併合
1911 1,383万人
1912 1,413万人  朝鮮委任統治の開始 1906/12/21 朝鮮統監府
1913 1,517万人  日韓併合      1910/10/01 朝鮮総督府
1914 1,517万人
1915 1,562万人
1916 1,631万人
1917 1,662万人
1918 1,670万人
1919 1,678万人
1920 1,692万人 128%/10年

1930 1,969万人  どんな言を弄したとしても日本の統治が欧米流の植民地
          政策の様な搾取ではない事をこの人口増が示しています。
1940 2,295万人
1942 2,553万人  約40年で人口は2.5倍に増えています。

人口比率    1690年   1858年
両班       7.6%    48.6%
常民       51.2%    20.2%
奴婢       41.2%    31.3%

上の2つの人口ヒエラルキーを見比べると李氏朝鮮の身分別の人口構成の異常さが明らですね。
日本ではほぼ9割が生産従事者ですが李氏朝鮮では僅か半分なのですから。
一切の生産活動には従事してはならない?両班(搾取階級)が人口の約50%!。 有り得ない!(^^;)
しかも、多いところでは両班層が7割といった地方すらあったそうです。

奇しくも「朝鮮紀行」を書いたイザベラ・バードは「朝鮮には階層が2つしかなかった。盗む側と盗まれる側である。 そして盗む側には官界をなす膨大な数の人間が含まれる。 搾取と着服は上層部から下級官吏にいたるまで全体を通じての習わしであり、どの職位も売買の対象となっていた。」と述べています。

夫々の階層中、階層間で弱い者に寄生・搾取して生きていたということになります。

朝鮮人は如何に怠惰・安逸を求め、搾取に走ったか---これが現在の国民性のコアになっているといって良いのではないでしょうか。

今から400年以上前、「朝鮮通信使」の無知と傲慢さ、道徳心と品性の低さには応接したものが、辟易とさせられていた様です。
宿泊地の応接係が対馬藩の案内役から「盗癖があるので、最低限のもの以外は彼らの近くには出さないように」と忠告されて吃驚したといった日記が残っています。
通詞に痰を吐きかけ、杖で打ち据えた為槍にかけられたものもいた様です。
まぁ、この辺りは韓国のドラマ【イルジメ】などにもその両班の暴虐ぶりや性的倫理観の欠如が窺えますね。
それはさておき、李朝朝鮮末には生産従事者が半分になってしまっており、かつ優秀な技能者・生産者にも名誉・地位も与えられず収奪の対象では、商・工業は無論、文化も花開く余地は全くありえません。

一方、中国の清では征服王朝の為か、韓国ほどの地方疲弊、政治腐敗には陥っておらず、韓国農村部よりも秩序ある姿がみれた事はイザベラ・バード他多くの外国人が著した書物でも明らかです。
都市には豪商、地方には豪農等郷神と呼ばれる階層が生まれており、官僚層や文化の担い手にもなっていました。

韓国人は声高に「日帝」が韓国から搾取したといいますが、この状態では搾取したくとも何もないのが現実ではありませんか。
それは当時の朝鮮人の生活レベルと産品を調べれば直ぐに分る事です。

この階級別人口比や韓国保護領化以降の人口爆発をみれば、それは全く逆で日本による公的資本投下(日本国民の血税)、身分制度の廃止、教育、行政、財政、司法、交通、通信等のインフラの整備及び農業指導と民間の投資による工場建設等の結果、経済が発達し国民の収入が増えた事のなによりの証である事が明らかです。

帝政ロシアの南下策がなければ、欧州列強による清に対する蚕食がなければ、日本にとって朝鮮半島を併合する価値はまったくなかった事も明らかでしょう。

日本は清国、李氏朝鮮に対し3国で協調し、列強に対抗する様説得を行いますが、夫々の王朝は事大主義に固まっており、その余りの不甲斐なさに「征韓論」等が起き、西南戦争の引き金になる等国内的に見てもこの2国の国情は日本にとってはマイナス要素でしかなかったのです。

清国(中国)とて同じです。 英国がなぜアヘンを中国に持ち込んだか? 安逸に流れ、消費財の生産も乏しく資本蓄積のない堕落した中国相手ではこれ以外では継続的に大きな利を生める見込みがなかったからに過ぎません。 それでも期待する利益がもたらされない為に阿片戦争を起こすのです。 阿片戦争で清(中国国民)が国を挙げて英国と対峙し、戦闘を継続し引き分けにでも持ち込んでいたら、それ以降の亜細亜史は大きく変わっていたでしょう。 日清戦争も日露戦争も日韓併合も起きず、日本の成長は少し遅れたかも知れませんが、日本は朝鮮に関わる事もななかったでしょう。

西欧白人種の脅威がなければ、太平洋戦争を起こす必要もないのですから。 但し、この場合、中国に較べ人材にも乏しく硬直した社会であった朝鮮は中世の状態のまま朽ち果てるしかなかったでしょうが。

この点については、全くの第三者であるハーバード大学教授で朝鮮史が専門のカーター・J・エッカートが、「李氏朝鮮時代の経済規模は同時代の日本や中国と比べて小さく、当時の商人と後の時代の資本家とのつながりがほとんど無いため、資本主義の萌芽は李氏朝鮮時代には存在しなかった。 日韓併合による日本の政策によって資本主義思想が持ち込まれ、特に戦後の韓国の資本主義や工業化は、上記のような日本の朝鮮半島での近代化政策を模したものである。」と述べているのを見ても明らかです。

当事韓国に関わった欧米人の韓国・韓国人評は

・ 韓国人は人間的素養に欠け、いまのままでは文明人にはなれない
・ 貨幣経済、商業・手工業といった初期資本主義の萌芽すらなく、
  近代国家としての体裁がない
・ 韓国人の手では資本主義的国家を形成する事は不可能で、
  ロシアか日本の支配下で国民性から政治・経済体制のすべてを
  再構築して貰う以外にない

といったものだといってよいでしょう。

そしてこれを認識していたのが、現第18代大統領朴槿恵の父親である第5代~第9代大統領朴正煕だったのです。
それ故、彼は必死に日本を模倣し、形振り構わず韓国の経済水準の底上げに尽力したのです。


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