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古代中国に於ける日本及び朝鮮の地位 [睡夢庵 日々徒然]

【古代中国に於ける日本及び朝鮮の地位】

《漢代における日本の地位》

☆ 後漢書  光武帝  西暦57年
倭の奴国に金印を授けた事が記載されています。
 =>「漢委奴国王」金印(福岡県志賀島出土)

☆ 三国志・魏志倭人伝 西暦238年
魏の皇帝より邪馬台国卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号と金印紫綬、銅鏡100枚を授かっています
卑弥呼の朝貢に対する返礼使が邪馬台国に対し「儒者の礼」を採った事も記述されており、国家として認めていた事が判ります。

<中国の印綬制度に於ける位>

材質   玉、金、銀、銅、木
綬(紐) 多色、萌黄、紫、青、黒、黄色

玉製黄赤綬   皇帝
金製朱綬    皇族
金印紫綬    総理大臣クラス、朝貢国王
銀印青綬    閣僚クラス

<漢代の王の称号>

原則として皇族に対してのみ与えられていました。
朝貢国で「王」の称号を与えられている例は「親魏大月氏王」等僅かな例しかない事から考えても、日本はその時期から周辺諸国では異例の扱いを受けていた事が分ります。

《漢代における朝鮮の地位》

王、候よりも遥に格下の「邑君」(地方長官)程度の地位しか与えられておらず、既に漢代においても漢の一部としての扱いしか受けていません。

《隋・唐代の日本の地位》

日本は遣隋使・遣唐使等を通じて、中国より仏教経典をはじめ多くの書籍を輸入しており、現在でも原典及びこれらを原典とする書籍類を含め中国以上の量と質の物が日本に残されているのではないでしょうか。
遣隋使・遣唐使共に朝貢の形を採ってはいますが、隋・唐からの冊封を受けた訳ではありません。
その意味でも日本はこの時代から中華圏からは完全に独立した国家であると認識されていたといっても良いと思います。

正徳太子が607年第2回遣隋使を送り出していますが、隋皇帝煬帝に宛てた国書に「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや、云々」(隋書-東夷傳■國傳)と記しており、これを見た煬帝は立腹し「蕃夷の書に無礼あらば、また以て聞するなかれ」と記述されています。
この書き出しが意図したものは、日本は中華的冊封体制には属さない事を表明したものと受け取れます。

また、小野妹子に同行した返礼使裴世清が持って来たとされる国書は「日本書記」に「皇帝問倭皇」という書き出しで記載されており、これに対する返書は「東天皇敬白西皇帝」という書き出しとなっています。 ここでも独立した国家として中国に対していたことが明らかです。 遣隋使は合計5回。

遣唐使は630年(舒明天皇2年)犬上御田鍬の派遣によって始まっていますが、その目的は仏教経典や唐の律令制等政治体制及び文化の吸収でした。
「旧唐書」には日本の使節が下賜された宝物を市井で全て売って金に代え、代わりに膨大な書物を購入して帰ったという話が記載されています。 これに見る様に、既に唐代においてさえ中国の一般的文物は日本にとって入手する価値を失っていた事が分ります。

唐側の記録には日本を対等の国家として扱ったか否かの明確な記述はありませんが、朝貢使と看做し遠国故に20年に一度の朝貢で良いとしていました。
これは中国各王朝の中華思想によるもので、中国以外の国家・民族は蕃夷(蛮夷)とし、見下していたからに過ぎないでしょう。
しかし、日本側は文化使節としての派遣であった為、天皇の代替わり等を口実に不定期的に使節を送っていた様です。
冊封を受けていたのでは無い為、席次は一定ではなかった様で、753年第12回の遣唐使は朝賀の際は新羅よりも下に置かれるという事件も起きています。

遣唐使は894年菅原道真による「最早唐より得られる物はなし」という建議により中止される迄19回に及んでいます。 尚、これは遣唐使以外の交易を禁止した為、外航船を建造する技術や外洋航海術が徐々に廃れてしまい、難破・遭難するケースが増えた事も原因とされています。 確かに後期になるに従って渡航が難しくなっている事が史実でも明らかです。

《中国における日本の文化・文物に対する評価》

文化の輸出に関しては、聖徳太子の「三経義疏」等は中国へ還流し、その内の「勝鬘経義疏」等はその解釈の卓抜さから中国天台宗僧明空により「勝鬘経義疏私鈔」といった注釈本迄作られる等、書・画及び扇子等の文物を含めこの時代から日本は文化的にも高く評価されています。 仏教絡みでは源信の著した「往生要集」は中国の天台宗にも評価され、源信には「日本小釈迦源信如来」の称号を送られるなど、経典解釈においても日本は高い評価を受けていました。

倭寇に苦しめられた中国において日本刀及びその刀法も垂涎の的であり、欧陽脩(9世紀北宋)の「日本刀歌」等、明、清代においても著名な文人が同様の漢詩を作っており、自国の衰えた文物に比し、輝きを持つ日本の文物に憧れを抱いていたことが判かります。

その他、卑弥呼の時代より日本の布はその色彩、艶等から珍重されていた様です。 和紙もまた中国の紙よりも優れた物として珍重されていました。 これらの技法は現在まで連綿として受け継がれ、世界でも認められた工芸品としての地位を確立しています。

世界最古の印刷物と認められているのは法隆寺に現存する「百万塔陀羅尼」であり、これは称徳天皇(718-70)の発願により作成されたもので、現在迄約1400年に渡って受け継がれ朽ちていない事を見てもその時代の製紙技術の高さが窺えます。

この様に古来より日本人は、旺盛な知識吸収欲を持ち、優れた理解力、応用力と創造力を持っていた事が判かります。

《中世韓国の地位》

新羅は唐と結び、660年百済を滅ぼします。 半島への影響力を失うのを恐れた日本は百済の遺臣を支援しますが663年の白村江の戦いで破れ、半島への影響力を失ってしまいます。 新羅は668年には唐の支援の下で高句麗を滅ぼし、半島を統一しますが、唐は百済の地に熊津都督府、高句麗の地に安東都護府、さらには新羅の地に鶏林州都督府を置き、新羅の文武王を鶏林州大都督として半島を支配しようとします。 これに反発した新羅及び高句麗遺民が連合し、670年3月鴨緑江を渡り唐軍に攻撃を仕掛け、唐・新羅戦争が始まります。 一時は百済の地も復活させたが、その後はジリ貧となり675年2月文武王は唐に謝罪使を送り、再度冊封されることになります。 その後勢いを盛り返し676年11月、新羅の水軍が錦江河口の伎伐浦海戰で薛仁貴の水軍を破り、これを最後に唐は遼東半島迄退き、新羅の半島統一を完成します。

しかしながら、新羅は唐との朝貢関係を維持せざるを得ず、唐の年号を使い続ける等、属国の扱いに甘んじざるを得ない状況に陥り、日清戦争で日本の保護領となるまでの間「千年属国」と呼ばれる状況に甘んじざるをえませんでした。
李朝朝鮮も又同様で、漢城の西大門である敦義門の外側の義州を経て北京に至る街道に建てられていた迎恩門は、李朝を通じて明及び清の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで出迎え、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だったのです。

加えて、日本及び琉球からの使節団は宮廷への参内にあったって騎乗を許さましたが、朝鮮使節団は歩行しか許されていなかった事を見ても朝鮮は独立国家と看做されていなかった事が明らかでしょう。


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