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「頂きます」・「ご馳走様」の持つ意味について [睡夢庵 日々徒然]

【「頂きます」・「ご馳走様」の持つ意味について】

「捕鯨」、「イルカ追い込み漁」といった日本古来からの食文化に対する干渉が繰り返し行われているが、これは人権・動物愛護等にすり変えるといった卑劣な手法を武器に他国文化を貶め、否定する行為である。 これは『文化を支配するのは自分たちであり正義は己にある』という、白色人種独特の偏執狂的かつご都合主義で傲慢な人種的優越感に根ざしている。

「鯨」という種を、食用ではなくただ鯨油を採るという利益追求目的だけで絶滅の危機に追い込んだのは白色人種だが、その反省がこの様なご都合主義の他民族の食文化への干渉なのか。

それだけではない、アメリカバイソンという種を食料とする為でなく、皮革・肥料や狩猟ゲームという商業目的や遊びで、アメリカ大陸のインディアン、アステカ等で原住民族という同じ人類の種農地収奪や財物奪取の目的で虐殺により絶滅寸前迄追い込んだ、そして前世紀迄アジア・アフリカで奴隷貿易や労働搾取等という天に唾する行為で自己の利益のみを追求していたのが白色人種(キリスト教信仰種族)なのだという自省は未だ生まれないのだろうか。 この反省があるならば、自己の価値観の押し付けが如何なるものか悟っていいはずである。 どこまで身勝手で自己中心的な思考回路なのだろうか・・・未だその倫理的蛮性を克服出来ない。


なぜ日本人が食事の前に「いただきます」、食事が終わると「ごちそうさま」というのか。

私たちのこの祈りは、『宗教上の作られた神』に対し、食を与えられた事に対する感謝として行う様なものではない。

これは奪われた「命」という尊厳に対して行うものなのである。 食事とは自らの命を保つ為に他の命を奪う行為に他ならない。 それ故、奪われる命全てを有り難く食し(「頂きます」)、その命とそれらを収穫し、料理した献身と努力に対しての畏敬と感謝の念(「ご馳走様」)を表すのである。 それ故食べ残す事を「悪」とする。

日本人は平安時代より全ての階層において幼少より「実語教」等といった修身の為の教育書を使い、儒教・仏教の教えを基礎に、「清貧」を徳として教えて来た。
それ故日本人は「貧乏」を「恥」とはせず、その中で正しい生き方をすべきとする。 欧米や中国・韓国の様にどの様な方法であれと稼いだものが勝ち(正義)、そして慈善活動などで口を拭うといった真似は逆に「恥」とする。 日本人の精神を受け継ぐ者は総じて慎ましく生きる。
また、富裕層であれ中・韓・米国の様な飽食はしない。 俗に「腹八分」というがこれが日本人に肥満が少なく、長命である理由の一つでもあろう。

地球上の生命は悲しいかな、「弱肉強食」という他の生命を喰らう事により自らの生命を維持するしか生きる道がない世界に生きる。 故に残せる命は出来るだけ残しておこうという観点に立つ。 それ故「やれ打つな蝿が手をすり足をする」といった句も生まれ、桜の花の散り際に生き様を重ね、生命の美を見るのである。

他方、ある地方では食料・害獣として駆除されるが、他の地方では保護されるといった事が起こるがこれを誰も責める事はしない。

我々は他民族の民族性・生活習慣・食習慣には干渉しない。 それは如何なるものであれ、その民族固有の文化であり、尊重されむしろ受け継がれなければならないものと考えるからである。 これらの時代の変化に伴う取捨選択はその民族のみに許されるあるものであり、他者がとやかく干渉するべきものではないからである。

他者の文化の否定や介入は、形を変えた最も卑劣な侵略行為であり、その意識を抱いた時点で、他者に対する配慮や平等意識の欠如を示すものである。
それ故、日本人は受入れるか否かは別として、他民族の文化も尊重するだけでなく、それらを云々する事はない。 受入れた他民族の文化は、これを咀嚼し、自らの理念の下に元の形を残しながら再構築して取捨選択し、より良い形を得るべく努力し、自身のものに変容させる。

何故、日本人が宗教に拘束されないか。 それはこの命に対する日本人の基本的な姿勢に由来する。 多くの宗教はその宗教以外を信じるものを疎外、敵視する。 そこからは生命を軽視する対立と憎悪以外のなにものも生まれず、本来宗教が果たすべき人間の精神と生活に安寧を齎す働きは、世の「組織化された宗教」には存在しないからある。

神道には教義というものがなく、形をなす『神』は存在せず、自然の全てに『神』が宿る若しくは人間自身の中にも宿るとする。 日本において儒学や仏教、そして「禅」が広く薄く受入れられているのは、これらは生活・精神を清澄に保つ精神的な指針と精神鍛錬の糧を与える哲学と言っても良い存在であり、その中から「友愛と自省」に繋がる部分を取捨選択して生活哲学としている。
多くの修練を必要とする技芸を『-道』という名で呼ぶ事にもこの精神が受け継がれている。
そして、儒学の精神である「五徳」を重んじ、中国や韓国の様に中期以降の儒教の悪しき面である「礼」(君臣、長幼の序、夫婦の絶対的隷属)を排して来た。 これが日本で中国発祥の文化が花開き、芸術・工芸といった多くの面で中国・韓国を遥かに凌ぐ、文化・文物が継承されて来た原因でもあり、日本人が外来文化を直ちに自家薬籠中の物と出来る源泉でもある。

それ故、多くの日本人は「あなたの宗教は?」と聞かれると困惑する。 日本人にとって地域にある神社の氏子でありながら、寺社(仏教宗派別)の檀家やキリスト教徒である事は自然な行為なのだから。
なぜなら、日本人の血・智は人が生み出した宗教上の「神」という存在を信じないからである。 それは、例えば絶対君主制が王権を正当化すると同様に、権力を確立・獲得する為の手段に過ぎない事をいにしえより見抜いているからである。

キリスト教、イスラム教、ヒンズー教等多くの宗教が存在するが、これ等を信じる世界には対立を生まずに宗教が並存している国家・民族が存在するだろうか。 それは多分「否」であろう。 なぜなら、「宗教」が権威・権力を獲得する手段として使われているからに他ならない。 この地球上に生まれた最も悪意ある存在が「組織化された宗教」なのだ。 これは現在イスラム教圏で顕在化している事柄を見ても明らかだろう。

我が国、そして神道にも確かに「神国」思想がある。 これは文明・国家の成立を謳う神話を持つ国家の何れもが持つ共通の概念であり、我が国の神話も「ギリシャ神話」「ローマ神話」等と多くの共通点を有している。
但し、これは多くの他の宗教教徒が抱く、民族や生命を位付けする「選民思想」とは異なるものであり、本来のイエス・キリストの精神の様に「神」に選ばれた民であるが故に自己を厳しく律し、「他者(生けとし生けるもの)」に対し寛容であれと説くものだ。 これは我が国の言葉の中に他者を侮蔑するものが殆どない事にもはっきりと表れている。

そして、日本人に「差別」があるとすれば、それは同じ観点・行動理念に立ち得るかという「区別」である。 それ故、膚の色は当然として、その人の宗教・思想・習慣に対しても、それが他者を強制しない限り「差別」することはなく、その人が差別意識を抱いていれば、「区別」し距離をおくだけだ。

この地球上で人として他の生命とのバランスを保ち、全ての生命が全う出来る世界を造るとすれば、いずれの思想が適切か考えずとも明らかなのではないか。
干渉は対立を生むだけである。 なぜあなた方は自身の心情や理想を他者に押し付けようとするのか。 この地球はその多様性があるが故に神秘的で豊かで美しい。 それを否定するあなた方の心は何故そこまで寂しく虚しいものなのか。


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