中国人の残虐行為の歴史 [睡夢庵 日々徒然]
【中国人の残虐行為の歴史】
近世に入ってからも中国では他国民だけでなく多くの自国民虐殺事件が起きています。
日中戦争が本格化して以降を幾つか見てみたいと思います。
《通州事件:冀東防共自治政府保安隊による虐殺》
・ 1937/07/29 日本軍留守部隊110名と婦女子を含む居留民
380名を襲撃、内260名を惨殺した。 日本軍を全滅させると
居留民宅を一軒ごとに襲い、略奪、暴行、強姦等を行った。
残された遺体の惨状は目を覆うべき猟奇的な有様だった。
将に南京事件で日本軍による強姦致死死体とされた物と同様な
状態だった。
《国民党政府:陳立夫を責任者とした「漢奸狩り」上海/南京周辺》
☆ 第二次上海事件勃発後(1937/08/13~11/07)
・ 上海市におけるもの
日本と通じるもの、便宜を図ったもの、長く滞在した経験の
ある者等を無裁判で処刑
総数は4000人を超え、政府官吏も300名以上がふくまれていた。
・ 南京市におけるもの(1937/08/13~12/12)
連日80名を超える者が処刑され、11月迄に約2000人が
虐殺された。 その多くは日本への留学生だったといわれる。
その後も虐殺は南京攻城戦終了迄続き、電柱や街角に鮮血に染まった
晒し首が目に付かない所はなかったと言われ、その実数は把握不能
6000~2万とも言われる。
・ 第二次世界大戦後
汪兆銘政権を支えた政治家等52名が銃殺され、親日派だったが故に
「漢奸」とされた者等約4万人が処刑や処罰された。 殺害された
実数は不明
《通化事件:ソ連軍/朝鮮人民義勇軍/中国共産党軍》
・ 1946/02/03 中国共産党軍に占領された通化で発生したソ連軍/朝鮮軍の
暴虐行為に対して蜂起した日本兵及び旧国民党、満州国民、日本人に
対する虐殺事件。 そもそもの原因はソ連軍/朝鮮軍兵士による日本人
女性への強姦、陵辱の多発。
この際も多くの日本人居留民女性が朝鮮軍、共産党軍に強姦された上
惨殺されている。 自殺者や殺害された実数は不明
《チベット侵攻》
・ 1948-1951 にかけてのチベット全域での戦闘。 これもチベット側
損害及びその後のインフラ建設での強制労働等による死者数も不明
《新疆・ウイグル侵攻》
・ 1949/10/13-詳細は不明
《長春包囲戦:国民党vs中国人民解放軍》
・ 1948/05/23-10/19 迄続いた中国人民解放軍による包囲作戦(兵糧攻め)
国民党軍が降伏する迄の150日間で50万人だった市民が17万人
迄減るという異常な作戦。 市民に33万人の餓死者をだした。
《文化大革命》
・ 1966/05-1976/10 迄の毛沢東復権の為の中国共産党内の権力闘争
1976/09/09 毛沢東の死を持って終焉
主導したのは林彪及び「文革四人組」江青、張春橋、姚文元、王洪文の
4名
林彪は民衆を扇動し、紅衛兵を使い共産党幹部、知識人、旧地主の子孫
等を組織的で暴力的な吊るし上げを全国で展開、多くの死者、自殺者を
だした。 また、この過程で文化財が甚大な被害を受ける。
この事件の死者数の公式な検証は行われぬままだが、11期全体会議で
死者40万、被害者1億と推定している。
しかし、この影響下での死者総数は1000万を下らないとされている。
《四五天安門事件》
・ 1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、
同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に
撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に
鎮圧された事件
これも毛沢東及び「文革四人組」の仕業。 実際の死者は不明
この時の「江青」の発言などはその品位の程度が疑われるもので
周囲の顰蹙を買った。 この件等もあり毛沢東の死の直後「四人組」は
失脚する事になる。
《六四天安門事件》
・ 1989年4月の胡耀邦の死を切っ掛けに、1989年4月15日頃から自然発生
し、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結した学生を
中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で弾圧、
多数の死傷者を出した事件をいう。
このデモは自然発生したものであり、デモを統制する者はいなかった。
しかし、上海を含む全国の都市に波及した為、鄧小平の指示により
5月19日北京市に厳戒令が発令され武力鎮圧の可能性が高まった。
趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を
促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモを継続した
ため首都機能は麻痺に陥った。
1989年6月4日未明人民解放軍は軍隊と戦車を投入、実弾射撃で強硬
弾圧を行った。 この後広範囲に渡りデモ参加者やその支持者等を
逮捕しており、事件のみならず周辺での犠牲者数も不明。
尚、戒厳令布告に反対した趙紫陽はその2005年の死迄自宅軟禁
されていた。
中国政府は中心的活動家21名を指名手配したが、内14名が国外で
亡命生活を送っている。 この件で中国共産党に愛想をつかした
その他活動家も国外に活動拠点を移す。
これらの事件の何れを取ってみても、中国における民衆や捕虜などに対する態度は清朝などの王朝期と変わらぬ中世的蛮性を持ったものであり、弱者へは躊躇無く想像を絶する仕打ちをすると共に死者に対する崇敬の念さえないものである事があきらかです。
これは中国共産党の洗脳教育を受けた者(憤青に代表される)にも引き継がれている様です。
しかし、ネット掲示板を見てみると、孔子への回帰傾向が見られますので却って民衆レベルの方が先に悪しき「大中華」から脱するかもしれません。
近世に入ってからも中国では他国民だけでなく多くの自国民虐殺事件が起きています。
日中戦争が本格化して以降を幾つか見てみたいと思います。
《通州事件:冀東防共自治政府保安隊による虐殺》
・ 1937/07/29 日本軍留守部隊110名と婦女子を含む居留民
380名を襲撃、内260名を惨殺した。 日本軍を全滅させると
居留民宅を一軒ごとに襲い、略奪、暴行、強姦等を行った。
残された遺体の惨状は目を覆うべき猟奇的な有様だった。
将に南京事件で日本軍による強姦致死死体とされた物と同様な
状態だった。
《国民党政府:陳立夫を責任者とした「漢奸狩り」上海/南京周辺》
☆ 第二次上海事件勃発後(1937/08/13~11/07)
・ 上海市におけるもの
日本と通じるもの、便宜を図ったもの、長く滞在した経験の
ある者等を無裁判で処刑
総数は4000人を超え、政府官吏も300名以上がふくまれていた。
・ 南京市におけるもの(1937/08/13~12/12)
連日80名を超える者が処刑され、11月迄に約2000人が
虐殺された。 その多くは日本への留学生だったといわれる。
その後も虐殺は南京攻城戦終了迄続き、電柱や街角に鮮血に染まった
晒し首が目に付かない所はなかったと言われ、その実数は把握不能
6000~2万とも言われる。
・ 第二次世界大戦後
汪兆銘政権を支えた政治家等52名が銃殺され、親日派だったが故に
「漢奸」とされた者等約4万人が処刑や処罰された。 殺害された
実数は不明
《通化事件:ソ連軍/朝鮮人民義勇軍/中国共産党軍》
・ 1946/02/03 中国共産党軍に占領された通化で発生したソ連軍/朝鮮軍の
暴虐行為に対して蜂起した日本兵及び旧国民党、満州国民、日本人に
対する虐殺事件。 そもそもの原因はソ連軍/朝鮮軍兵士による日本人
女性への強姦、陵辱の多発。
この際も多くの日本人居留民女性が朝鮮軍、共産党軍に強姦された上
惨殺されている。 自殺者や殺害された実数は不明
《チベット侵攻》
・ 1948-1951 にかけてのチベット全域での戦闘。 これもチベット側
損害及びその後のインフラ建設での強制労働等による死者数も不明
《新疆・ウイグル侵攻》
・ 1949/10/13-詳細は不明
《長春包囲戦:国民党vs中国人民解放軍》
・ 1948/05/23-10/19 迄続いた中国人民解放軍による包囲作戦(兵糧攻め)
国民党軍が降伏する迄の150日間で50万人だった市民が17万人
迄減るという異常な作戦。 市民に33万人の餓死者をだした。
《文化大革命》
・ 1966/05-1976/10 迄の毛沢東復権の為の中国共産党内の権力闘争
1976/09/09 毛沢東の死を持って終焉
主導したのは林彪及び「文革四人組」江青、張春橋、姚文元、王洪文の
4名
林彪は民衆を扇動し、紅衛兵を使い共産党幹部、知識人、旧地主の子孫
等を組織的で暴力的な吊るし上げを全国で展開、多くの死者、自殺者を
だした。 また、この過程で文化財が甚大な被害を受ける。
この事件の死者数の公式な検証は行われぬままだが、11期全体会議で
死者40万、被害者1億と推定している。
しかし、この影響下での死者総数は1000万を下らないとされている。
《四五天安門事件》
・ 1976年4月5日に中華人民共和国の北京市にある天安門広場において、
同年1月に死去した周恩来追悼の為にささげられた花輪が北京市当局に
撤去されたことに激昂した民衆がデモ隊工人と衝突、政府に暴力的に
鎮圧された事件
これも毛沢東及び「文革四人組」の仕業。 実際の死者は不明
この時の「江青」の発言などはその品位の程度が疑われるもので
周囲の顰蹙を買った。 この件等もあり毛沢東の死の直後「四人組」は
失脚する事になる。
《六四天安門事件》
・ 1989年4月の胡耀邦の死を切っ掛けに、1989年4月15日頃から自然発生
し、中国・北京市にある天安門広場に民主化を求めて集結した学生を
中心とした一般市民のデモ隊に対し、中国人民解放軍が武力で弾圧、
多数の死傷者を出した事件をいう。
このデモは自然発生したものであり、デモを統制する者はいなかった。
しかし、上海を含む全国の都市に波及した為、鄧小平の指示により
5月19日北京市に厳戒令が発令され武力鎮圧の可能性が高まった。
趙紫陽総書記や知識人たちは学生たちに対し、デモの平和的解散を
促したが、学生たちの投票では強硬派が多数を占め、デモを継続した
ため首都機能は麻痺に陥った。
1989年6月4日未明人民解放軍は軍隊と戦車を投入、実弾射撃で強硬
弾圧を行った。 この後広範囲に渡りデモ参加者やその支持者等を
逮捕しており、事件のみならず周辺での犠牲者数も不明。
尚、戒厳令布告に反対した趙紫陽はその2005年の死迄自宅軟禁
されていた。
中国政府は中心的活動家21名を指名手配したが、内14名が国外で
亡命生活を送っている。 この件で中国共産党に愛想をつかした
その他活動家も国外に活動拠点を移す。
これらの事件の何れを取ってみても、中国における民衆や捕虜などに対する態度は清朝などの王朝期と変わらぬ中世的蛮性を持ったものであり、弱者へは躊躇無く想像を絶する仕打ちをすると共に死者に対する崇敬の念さえないものである事があきらかです。
これは中国共産党の洗脳教育を受けた者(憤青に代表される)にも引き継がれている様です。
しかし、ネット掲示板を見てみると、孔子への回帰傾向が見られますので却って民衆レベルの方が先に悪しき「大中華」から脱するかもしれません。