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大東亜戦争(第二次世界大戦)の意義 [睡夢庵 日々徒然]

【大東亜戦争(第二次世界大戦)の意義】

大東亜戦争は未だ西欧の植民地下にあるアジア諸国の開放とその近代化を企てた、そして自身の生き残りを賭けた日本と植民地の維持・拡大を図ろうとしたアメリカ・西欧諸国との武力衝突です。
ドイツ・イタリアとの同盟は日本にとっては好まざる選択でしたが、国際社会でのパワーバランス上不可避だったと言えるでしょう。

☆ アーノルド・J・トインビー/オブザーバー紙上-1956/10/28

「第二次世界大戦において、日本人は日本の為というよりも、寧ろ戦争により利益を得た国々の為に偉大な歴史を残したと言わねばなるまい。 その国々とは短命な理想である「大東亜共栄圏」に含まれている国々である。 日本人が歴史上に残した業績の意義は、西洋人以外の人類の面前において、アジアとアフリカを支配してきた西洋人が過去200年間考えられていたような不死の半神ではない事を明らかにした点である。 イギリス人もフランス人もアメリカ人も、ともかく我々は将棋倒しにバタバタとやられてしまった。」

大東亜戦争の結果、今尚有色人種に対する差別意識を残す彼らも日本という国家の存在により曲がりなりにもその人種的偏見を考え直さざるをえなくなった事を指摘しています。

☆ オリバー・リットルトン(イギリス軍需生産大臣)
  ロンドンのアメリカ商工会議所における発言-1944/06/20

「アメリカが戦争に追い込まれたと言うのは歴史上の狂言である。 アメリカが日本を追い込んだのである。 日本がパールハーバーを攻撃せざるを得ないまでに日本に強圧を加えたのである。」

これは当時西欧各国の政治中枢にいた第二次世界大戦に至る経過を知る人達の共通した認識だったといっていいでしょう。 何しろアメリカいや「ルーズベルト」は日本の国外資産の凍結だけでなく、石油禁輸という手段で経済的に日本を破滅させようとしていた事を知っていたからです。

そして明治の文明開化後の日本が愚直な迄に条約や国際法を遵守する国家だという事を彼らは知っていました。
また、第二次世界大戦中も国際法を可能な限り遵守した国は他にはないといっても過言ではないのです。

☆ スチムソン日記(米国陸軍長官)

1941/11/25
「彼(ハル)は今日か明日のうちに日本側に提案するつもりであった」
「それは米国の利益を十分に保護したものであることを一読してすぐに知ったが、しかし、提案の内容はひじょうに激烈なものであるから、私には、日本がそれを受諾する機会はほとんどないと思われた」
当日ハル国務長官からスチムソンとノックス海軍長官はハル・ノートを見せられており、この様に日記に記している。
1941/11/27
ハル国務長官が彼に「私はこれで両手を洗った。 これからは君とノックス海軍長官の手に移った」と記述。
1941/12/07
「日本がわが国を攻撃したという第一報を受けた時、わたしの最初の気持ちは救われたということであった。 団結したわが国は恐れるものはないと感じたからである。」

補足) 米国のハル・ノート提示後の行動

フィリピン・ボルネオ・タイなどの米国軍駐留地に対し「対日交渉はすでに終了した。 日本の攻撃が数日中に予測されるので適切な防御体制を採れ」との訓電をおこなっている。

以上から、ハル・ノートは日本に先に手を出させる為の物であったこと、それがルーズベルト政権側の意図であった事は疑う余地はありません。

但し、日米交渉成立の場合は即時帰還の命令は下されてはいましたが、パールハーバー急襲部隊が択捉島単冠湾を出港したのはハル・ノート提示1日前でした。
日本側も米国側の意図には気付いており、和平交渉に当っていた野村特使に対し、ハル・ノートに対する回答の期限を伝えていたが残念ながら訓電の翻訳と文書作成に時間を費やしてしまい、「騙まし討ち」をしたとしてルーズベルトの意図通り米国国民を対日戦争肯定へ向かわせる口実を与える結果となってしまいました。

☆ ラダビノード・パール(極東国際軍事裁判インド人判事)

ハル・ノートについて極東国際軍事裁判のインドのパール判事は

「このような無理難題をふっかけられたら、モナコやルクセンブルグの様な国でも矛をとっていたであろう」

また彼は、極東国際軍事裁判の判事の中で、唯一国際法での学位を持つ人でもあり、この裁判は「裁判」ではなく「(白色人種による)復讐の儀式に過ぎない」とこの裁判を根底から否定する判決を出した事でも有名です。

補足)

<極東国際軍事裁判 裁判官・判事>

ウィリアム・ウェブ(オーストラリア連邦派遣)
    ☆ 裁判長。連邦最高裁判所判事
マイロン・C・クレマー少将(アメリカ合衆国派遣)
    ☆ 陸軍省法務総監。ジョン・P・ヒギンズから交代
ウィリアム・パトリック
(グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国派遣)
    ☆ スコットランド刑事上級裁判所判事
イワン・M・ザリヤノフ少将
(ソビエト社会主義共和国連邦派遣)
    ☆ 最高裁判所判事。陸大法学部長
アンリー・ベルナール(フランス共和国派遣)
    ☆ 軍事法廷主席検事
梅汝璈(中華民国派遣)
    ☆ 立法院委員長代理
ベルト・レーリンク(オランダ王国派遣)
    ☆ ユトレヒト司法裁判所判事
E・スチュワート・マックドウガル(カナダ派遣)
    ☆ ケベック州裁判所判事。
エリマ・ハーベー・ノースクロフト(ニュージーランド派遣)
    ☆ 最高裁判所判事。
ラダ・ビノード・パール(インド派遣)
    ☆ カルカッタ高等裁判所判事
      判事の中では唯一の国際法の専門家であった。
デルフィン・ハラニーリャ(フィリピン派遣)
    ☆ 司法長官。最高裁判所判事

但し、この11人の判事が一堂に会して検討を加える事などなかったことをフランスのベルナール判事が暴露しており、裁判は6人組と呼ばれる、米、英、ソ、中、カナダ、ニュージーランドの判事によって決められたといってよのです。
この裁判は法の裏打ちがない状態で進められた為、残る5人が夫々意見書(判決)を出していますが、欧米での戦後軍事法廷では少数意見も公表されていましたが、裁判条例に少数意見も公表するとしていたにも関わらず、発表を禁止してしまいました。 これでこの裁判が米、中、ソによる「復讐の儀式」に過ぎなかった事が露呈されています。

補追)
日本に対する世界の評価 -第二次世界大戦-
https://www.youtube.com/watch?v=CNQhe_inhGc
日本人は心優しき侍/世界から感謝される日本
https://www.youtube.com/watch?v=RntUs2gjM3g


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