BGM: カラヤン/バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽 [睡夢庵のBGM]
【BGM: カラヤン/バルトーク 弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽】
今日はバルトークの《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》、カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 カップリングはストラヴィンスキーのバレー音楽《ミューズの神を率いるアポロ》。
これはバルトークの作品の中でも最も多く取り上げられるもの。 指揮者パウル・ザッハーの委嘱により彼が主宰するバーゼル室内管弦楽団の創立10周年記念で演奏する作品として作られたもの。 1937年ザッハーの指揮するバーゼル室内管弦楽団により初演されている。 弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハープ)、打楽器(木琴、ドラム、シンバル、タムタム、ディンパニ、チェレスタ)とピアノで構成される。
ストラヴィンスキーのバレー音楽《ミューズの神を率いるアポロ》は「エディプス王」、「詩篇交響曲」と共にその新古典主義時代の代表作とされるもので、彼の3大バレーと呼ばれるものの様な異様なダイナミズムは失われているが旋律的な美しさを持った作品。 2場10曲からなる。
《バルトーク・ベーラ》
Bartok Bela Vktor Janos, 1881/03/25-1945/09/26没。 ハンガリー領トランシルヴァニア・ナジセントミクローシュで生まれる。 父親は町に音楽協会を設立するほどの音楽愛好家で母親はピアノ教師という環境で、4歳の時には既に習わぬピアノを弾いていた。 7歳の時に父親を失った彼はピアノ教師として一家を支える母親と共にナージセレーシュに移り住む。 9歳頃から作曲を始め、10歳の時にはピアニストとしてデビューする。 1898年ウィーン音楽院に入学するが、国際色豊かなウィーンよりハンガリーの作曲家として生きるべきというドホナーニの意見に従い、翌年ブタペスト王立音楽院(リスト音楽院)に入学、作曲とピアノを学ぶ。 1905年パリでルビンシュタイン音楽コンクールのピアノ部門と作曲部門に出場。 ピアノ部門で2位、作曲部門で奨励賞2席を得る。 1907年ブタペスト王立音楽院ピアノ科教授に就任、1934年迄この任に就く。 第二次世界大戦勃発と共に硬化していくハンガリーを嫌い、1940年春のアメリカ演奏旅行の際、米国移住を打診、翌年膨大な研究資料等と共に米国へ移住する。 1945年白血病の為にニューヨークで死去。
《イゴール・ストラヴィンスキー》
Igor Fyondorovitch Stravinsky, 1882/06/17-1971/04/06没。 ロシア帝国の作曲家・指揮者・ピアニスト。 ロシア帝国サンクトペテルスブルク近郊のオランニエンバウム生まれ。 父親はマリインスキー劇場のバス歌手。 大学には法律を学ぶ為に入るが、在学中に作曲家に転向する意志を固め、リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学ぶ。 1908年「幻想的スケルツォ」と「花火」が初演され、これがディアギレフに認められ、彼の委嘱を受けてロシア・バレー団の為に作曲する事になる。 その第1作が「火の鳥」、第2作が「ペトルーシュカ」、第3作が「春の祭典」であり、この3作によって若手作曲家として名をあげる。 1914年第一次世界大戦勃発後スイスに居を定める。 1920年~50年は彼の新古典主義の時代とされ、バロック音楽への回帰がみられる。 1939年ナチスの台頭を受け、アメリカへ亡命し、ハーバード大学で教鞭を執る。 その後、ハリウッドに居を定める。 日本には1959年に来日、日比谷公会堂で演奏会を行っている。 彼の作風の変遷は原始主義時代と呼ばれる彼の3大バレー音楽に代表される期間で、「結婚」を最後とする。 その後新古典主義時代と呼ばれるバレー音楽「プルチネルラ」以降第二次世界大戦終了まで、そして十二音技法時代に分けられる。
・ 彼のバレー音楽
- 火の鳥 1910年パリ・オペラ座初演
- ペトルーシュカ 1911年パリ・オペラ座初演
- 春の祭典 1913年ハリ・シャンゼリゼ劇場初演
- プルチネルラ 1920年初演
- 結婚 1923年初演
- ミューズを率いるアポロ 1928年初演 1947年改訂
- 妖精の接吻 1928年初演 1950年改訂
- カルタ遊び 1937年初演
- オルフェウス 1948年初演
- アゴン 1957年初演
今日はバルトークの《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》、カラヤン指揮/ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。 カップリングはストラヴィンスキーのバレー音楽《ミューズの神を率いるアポロ》。
これはバルトークの作品の中でも最も多く取り上げられるもの。 指揮者パウル・ザッハーの委嘱により彼が主宰するバーゼル室内管弦楽団の創立10周年記念で演奏する作品として作られたもの。 1937年ザッハーの指揮するバーゼル室内管弦楽団により初演されている。 弦楽器(ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハープ)、打楽器(木琴、ドラム、シンバル、タムタム、ディンパニ、チェレスタ)とピアノで構成される。
ストラヴィンスキーのバレー音楽《ミューズの神を率いるアポロ》は「エディプス王」、「詩篇交響曲」と共にその新古典主義時代の代表作とされるもので、彼の3大バレーと呼ばれるものの様な異様なダイナミズムは失われているが旋律的な美しさを持った作品。 2場10曲からなる。
《バルトーク・ベーラ》
Bartok Bela Vktor Janos, 1881/03/25-1945/09/26没。 ハンガリー領トランシルヴァニア・ナジセントミクローシュで生まれる。 父親は町に音楽協会を設立するほどの音楽愛好家で母親はピアノ教師という環境で、4歳の時には既に習わぬピアノを弾いていた。 7歳の時に父親を失った彼はピアノ教師として一家を支える母親と共にナージセレーシュに移り住む。 9歳頃から作曲を始め、10歳の時にはピアニストとしてデビューする。 1898年ウィーン音楽院に入学するが、国際色豊かなウィーンよりハンガリーの作曲家として生きるべきというドホナーニの意見に従い、翌年ブタペスト王立音楽院(リスト音楽院)に入学、作曲とピアノを学ぶ。 1905年パリでルビンシュタイン音楽コンクールのピアノ部門と作曲部門に出場。 ピアノ部門で2位、作曲部門で奨励賞2席を得る。 1907年ブタペスト王立音楽院ピアノ科教授に就任、1934年迄この任に就く。 第二次世界大戦勃発と共に硬化していくハンガリーを嫌い、1940年春のアメリカ演奏旅行の際、米国移住を打診、翌年膨大な研究資料等と共に米国へ移住する。 1945年白血病の為にニューヨークで死去。
《イゴール・ストラヴィンスキー》
Igor Fyondorovitch Stravinsky, 1882/06/17-1971/04/06没。 ロシア帝国の作曲家・指揮者・ピアニスト。 ロシア帝国サンクトペテルスブルク近郊のオランニエンバウム生まれ。 父親はマリインスキー劇場のバス歌手。 大学には法律を学ぶ為に入るが、在学中に作曲家に転向する意志を固め、リムスキー=コルサコフに作曲法と管弦楽法を学ぶ。 1908年「幻想的スケルツォ」と「花火」が初演され、これがディアギレフに認められ、彼の委嘱を受けてロシア・バレー団の為に作曲する事になる。 その第1作が「火の鳥」、第2作が「ペトルーシュカ」、第3作が「春の祭典」であり、この3作によって若手作曲家として名をあげる。 1914年第一次世界大戦勃発後スイスに居を定める。 1920年~50年は彼の新古典主義の時代とされ、バロック音楽への回帰がみられる。 1939年ナチスの台頭を受け、アメリカへ亡命し、ハーバード大学で教鞭を執る。 その後、ハリウッドに居を定める。 日本には1959年に来日、日比谷公会堂で演奏会を行っている。 彼の作風の変遷は原始主義時代と呼ばれる彼の3大バレー音楽に代表される期間で、「結婚」を最後とする。 その後新古典主義時代と呼ばれるバレー音楽「プルチネルラ」以降第二次世界大戦終了まで、そして十二音技法時代に分けられる。
・ 彼のバレー音楽
- 火の鳥 1910年パリ・オペラ座初演
- ペトルーシュカ 1911年パリ・オペラ座初演
- 春の祭典 1913年ハリ・シャンゼリゼ劇場初演
- プルチネルラ 1920年初演
- 結婚 1923年初演
- ミューズを率いるアポロ 1928年初演 1947年改訂
- 妖精の接吻 1928年初演 1950年改訂
- カルタ遊び 1937年初演
- オルフェウス 1948年初演
- アゴン 1957年初演
発売日:1973年5月 録音日:1969年9月26日/1972年2月17日 グラモフォン LP No.:MG 2387 | |
-Side-A- ベラ・バルトーク 《弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽》 01. 第一楽章 : Andante tranquillo 02. 第二楽章 : Allegro 03. 第三楽章 : Adagio 04. 第四楽章 : Allegro molto -Side-B- イゴール・ストラヴィンスキー バレー音楽《ミューズの神を率いるアポロ》 第1場 01. アポロの誕生 第2場 02. アポロの踊り 03. パ・ダクシオン 04. カリオペの踊り 05. ポリュムニアの踊り 06. テルプリコレの踊り 07. アポロの踊り 08. パ・ド・ドゥー 09. コーダ 10. アポロの祭典 ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 |